DX(デジタルトランスフォーメーション)を推進するために専門部署を設置する企業は少なくありません。一方で、部署を横断した取り組みの経験がほとんどないことから、具体的に何をすれば良いのかが分からなかったり、施策を実行したもののうまくいかなかったりと、はじめの一歩目、あるいは次の二歩目がうまく踏み出せずにいるケースも多いのではないでしょうか。
 DXをはじめとする組織変革は、単なる設備投資や人材の獲得だけで実現することはできません。ビジネスとデジタル技術が限りなく融合していく時代においては、組織がデジタルプロダクトをつくり、運用していく態度そのものがビジネスのあり方に直結します。変革を成し遂げるために必要なのは、組織を構成する人ひとりひとりの行動・態度の変容であり、その鍵となるのが「アジャイル」です。
 2022年4月12~14日の3日間にわたってオンライン開催された『Red Conference April』では、豊富なDX支援・アジャイル支援の経験を持つレッドジャーニーが、多様なクライアントとともに取り組みの様子や成果、今後の展望などについて語りました。この記事では、DAY1にご登壇いただいた住友ファーマ株式会社 取締役 常務執行役員の馬場博之様と、レッドジャーニー代表の市谷聡啓による講演の概要をお届けします。
※役職、肩書は2022年7月1日時点のものです。

「組織にアジャイルを芽吹かせる」 アジャイルCoEが持つべき6つの初期バックログ

話し手
市谷 聡啓

株式会社レッドジャーニー 代表
DevLOVE オーガナイザー

サービスや事業についてのアイデア段階の構想から、コンセプトを練り上げていく仮説検証とアジャイル開発の運営について経験が厚い。プログラマーからキャリアをスタートし、SIerでのプロジェクトマネジメント、大規模インターネットサービスのプロデューサー、アジャイル開発の実践を経て、自らの会社を立ち上げる。それぞれの局面から得られた実践知で、ソフトウェアの共創に辿り着くべく越境し続けている。訳書に「リーン開発の現場」がある。著書に「カイゼン・ジャーニー」「正しいものを正しくつくる」「チーム・ジャーニー」「いちばんやさしいアジャイル開発の教本」「デジタルトランスフォーメーション・ジャーニー」がある。最新著は「組織を芯からアジャイルにする」(2022年7月21日刊行)。

DXを組織に広めるためのプロセス

今日は、ソフトウェア開発で培われた「探索と適応のすべ」を組織の運営に適用する「組織アジャイル」についてお話します。

まず、どの「アジャイル」について取り上げているのかに留意する必要があります。組織の置かれている状況や、取り組みの進み度合いによって、「アジャイル」の意味する内容が変わるからです。チームで仕事をするためのアジャイル、探索と適応のためのアジャイル、組織運営のためのアジャイル、それらを支えるアジャイルマインドの理解といった具合で、それらの段階的な構造を表したのが「アジャイル・ハウス」です。建物と同様に、組織アジャイルについても基礎から積み重ねる取り組み方が求められます。

アジャイル・ハウス

長い歴史を持つ伝統的な組織で、これまでと異なるプロセスや技術を採用しようとすると壁にぶつかります。例えば、組織全体の総論としてはDX推進という方向で一致していても、目の前の仕事や個別のプロジェクトになると従来通りに進めてしまい、結果としてなかなか進まないということがよく起こります。そんな時、「DX」という言葉や概念が良い旗振り役になってくれます。

DXのような新しい取り組みには失敗がつきものです。現場で取り組む人が様々なリスクを回避しようとするのは仕方のないことです。ジョン・コッターによる「変革の8段階のプロセス」で言われているように、「CoE=Center of Excellence(変革推進チーム)」のような存在が必要です。

「CoE」とは、一定の専門性を持ち、組織や部署を横断して活動するチームのことです。アジャイルやクラウド利用、AIの活用など、全社方針に影響を与えるような課題について、個々の現場ではなく「CoE」に一旦集約し、そこからバックログとして必要な働きかけをしていきます。

皆さんの組織にも、「アジャイルCoE」のようなアジャイルを推進していく部署が恐らくあると思います。ない場合は、作れるようであれば作った方がいいですし、それが難しい場合は、有志の取り組みから始めて結果が出てから部署を作るのでもいいと思います。

アジャイルCoEが持つべき6つのバックログ

これからお話する6つのバックログは、これまで数々の組織でアジャイル支援を行ってきた経験から、「どう考えてもこれをやった方がいいだろう」と思う内容です。住友ファーマ株式会社(以下、住友ファーマ)でも、メンバーの皆さんと一緒に取り組んでいます。

(1)小さなガイドをつくる

まず、その組織における組織アジャイルの「ガイド」を作りましょう。大きな組織で新しいことを広めるには、まず存在を知ってもらう必要があります。また、新たな取り組みには「まとまった知識」が必要です。それらを集めた「定点」のような場所を作らないと、存在が曖昧になってしまいます。「小さな型」駆動で、足場的理解を作ります。

あくまでも「小さなガイド」です。はじめから組織の「標準」として扱おうとすると作りこみすぎてしまいます。本当に自組織にフィットしているのか、経験のないまま想像で作り込んでしまうと、実践の場面で現実とのギャップに戸惑うことになります。不足を感じるくらいの小さなガイドに、実践から学んだことに基づき補足をしながら進めていきましょう。そもそも、本家のスクラムガイドも日本語版で20頁以下しかない小さなものです。

(2)教育コンテンツを備える

次の段階として、対象ごとに教育コンテンツを備えましょう。まずは、基礎知識を身に付けるための基礎研修を行います。そして、部門管理職がどのようにアジャイルに向き合うのか、マネージャー向けの管理者研修を基礎研修とセットで行います。アジャイルを意図的に組織に定着させるためには「アジャイルCoE」として伴走支援を行う「組織スクラムマスター」の役割が必要ですから、その養成のための受け皿も用意しましょう。

(3)社内コミュニティを立ち上げる

社内コミュニティの例としてご紹介したいのが、株式会社リコー(Red Conference DAY3に登壇)の「みんなのデザイン思考とアジャイル」という取り組みです。コミュニティを立ち上げ、公式noteで情報を発信しています。ちょっとした疑問を気軽に解消できるような社内コミュニティがあると、アジャイルがより身近な存在になっていきます。コミュニティが大きく発展するかどうかということ以上に、「そこに行けば話を聞いてくれる」という場所があることが大事だと思います。

(4)社外への発信

先述の「みんなのデザイン思考とアジャイル」では、公式noteでの発信をすることで「外」から「内」へ知らせるということを意図的に行っています。大きな組織には「内部の隅々まで知らせるチャネル」自体が無いことがあり、むしろ外部経由で内部に伝わる方が響きやすい場合があります。何よりも、外に発信することで内部でのコミットメント、覚悟に繋がります。

(5)組織理念との整合を取る

伝統的な組織ほどウェイ(「企業理念」「行動指針」「ビジョン」「ミッション」等、組織全体で共有される行動規範や共通の価値観の総称)が言語化されていることが多いです。既に形骸化していることも多いのですが、新しいものを広めようとするときには利用できることがあります。こうした既存の理念や概念と、アジャイルなどの新しい概念を結びつけ、整合を取ることで新しい取り組みに大義名分が得られます。ウェイを社内に浸透させるための活動と結びつけることで新しい概念を社内に根付かせるチャネルができます。

(6)実践の伴走支援

本格的に、地道に取り組まなくてはならないところです。ガイドや研修だけではなく、行動や実践から学び直すことが必要です。最初は足場を得るための知識として小さな型を活用します。そして、一歩踏み出したあとは、より前に進めるために「ふりかえり」「むきなおり」を行います。ガイドを読んで一歩目を踏み出すことはできても、その先に問いやきっかけがなければ、やった行為から気付きを得ることは難しいでしょう。学びを促す役割として、組織スクラムマスターの伴走が必要です。

アジャイルによってアジャイルになる

アジャイルの取り組みは、最初は見様見真似でいいのです。本やセミナーなどで十分な知識を得てから取り組もうと思っていたら、いつまで経っても取り組めません。見様見真似でやってみて、うまくいかなかったとしても、その結果についてアジャイルの原則や価値観に立ち返って捉え直していくことが大事です。「Be Agile by Agile」―アジャイルの真似事をしながらアジャイルになっていきます。お話した6つのバックログを携えてアジャイルを広める活動に取り組んでいただければ、難しさの中でも少し進めやすくなるのではないでしょうか。

イノベーションを生みだすアジャイルの乗りこなし方。 ―アジャイルに取り組んだきっかけ

話し手
馬場 博之 様

住友ファーマ株式会社
取締役 常務執行役員 データデザイン、法務、知的財産、IT&デジタル革新推進、フロンティア事業推進担当

現在、データデザイン、IT&デジタル革新推進担当の常務執行役員としてDX推進をリードするとともに、フロンティア事業推進担当としてメンタルレジリエンスおよびアクティブエイジングの分野における革新的なデジタルソリューションの開発をリードする。 これまでにサノビオン・ファーマシューティカルズ・インクのExecutive Vice PresidentとしてCorporate Strategyを担当。経営企画、M&A計画を含む事業提携、住友化学株式会社でのジョイントベンチャープロジェクトの推進など、20年間に及ぶグローバルな業務経験を持つ。これらの後、10年間は大日本住友製薬においてグローバルベースでの経営企画、事業開発、法務、知的財産、デジタル革新推進および国際事業の推進を経験。 米国ノースカロライナ大学で経営学修士(MBA)を取得。

今より高い目標に挑み実現するための「アジャイル」

私からは、弊社のアジャイルの取り組みについて、背景や想いを簡単にお話させていただきます。少しでもお役に立てば光栄です。

ご存知かもしれませんが、医薬品業界には厳しい特性があります。例えば、新薬発売の成功確率は22,407分の1、開発にかかる平均的な期間は10年以上と言われます。また、国内の製薬企業大手10社の年間平均の研究開発費は1517億円です。これらの数字を見るとあらためて厳しさを実感しますが、その難しさを越えてでも医薬品を世に出す価値や必要性は大きく、我々の社会的責任であるとも考えています。

常に今より高い目標に挑み、実現したいと願う日々の中で、自然発生的に出てきたのが「アジャイル」というキーワードです。機敏さ、臨機応変さを意味する言葉ですが、経営層の多くはこのアジャイルという手法について当初から多くを知っていたわけではありません。事業を運営し様々な取り組みを進める中で、持つべき姿勢やマインドセットを表す言葉として「アジャイル」が登場すると、次第に経営会議をはじめとするいろんな場面で耳にする頻度が上がっていきました。

ほぼ同時期に、アジャイルをより身近に感じられる出来事がありました。2019年の、バイオベンチャーであるロイバント・サイエンシズ社(以下、ロイバント)との戦略的提携です。ロイバントは、2014年に設立され、ニューヨークを中心に活動している先端的なバイオ企業です。ロイバントの当時のCIOであったダン・ロスマン氏(以下、ダン)を、弊社グループ全体のチーフ・デジタル・オフィサー(CDO)として迎え入れました。

ダンをはじめとするロイバント出身のメンバーたちは、アジャイルをまさに体得していました。その価値を十分に理解し、具体的な手法を日々の業務で実践していました。これを機に、弊社内でのアジャイルの浸透がより進みました。ダンから皆さまへのメッセージをお聞きください。

住友ファーマグループCDOのダン・ロスマン氏よりメッセージ(概要)

レッドカンファレンスにご参加いただいている皆様、こんにちは。

住友ファーマグループにおいて、アジャイルの原則は、私たちのイノベーションへの取組みの中心にあります。中でも、デジタル技術でいかにしてイノベーションをドライブするかというデジタルイノベーションに注目しています。これからお話しする内容は、デジタル技術に限らずイノベーションに関するいかなる取組みにも広く適用できるはずです。

イノベーションは実際の現場で起こります。そのため、イノベーター(デジタルイノベーションを推進するチームのメンバー)はビジネス部門の現場にチームの一員として入り、「真のパートナー」として現場の最前線で活動します。住友ファーマでは、営業、マーケティング、研究開発など様々なビジネス部門にイノベーターが配置されています。彼らが毎日、実際の現場に触れ、そのビジネスを深く理解することで、ビジネスとテクノロジーが一つの頭の中で同居し、動き出します

イノベーターはビジネスチームのメンバーとコミュニケーションをとり、頻繁にデモンストレーションを行って、チームメンバーからのフィードバックを取り入れていきます。イノベーション推進チームがビジネスチームの業務について深く理解すると同時に、どうやってイノベーションを起こすかについてビジネスチーム全体が深く理解することができます。

意思決定を組織全体に分散させることが必要です。ビジネスリーダーが取り組みの優先順位を決めるようにすることで、真の信頼と理解を築くことができます。イノベーション推進チームのリーダーとビジネスリーダーとが共同のオーナーシップを持ち協働することで、ビジネスニーズから真のイノベーションが生まれ、価値が生まれます。

イノベーションは本質的に、リスクを取ることにつながります。イノベーターはいつも新しいアイデアを考え出し、それを実践していますが、「ビジネスニーズを正確に理解できているか」「正しいアイデアを出すことができるか」「適切なアウトプットを提供できるか」などリスクについて考えることは挑戦への恐怖感を生むでしょう。「どんな失敗も受け入れる」という言葉だけではなく、全体のオペレーティングモデルを失敗のコストを最小限にするモデルに整えることが必要です。小さな単位で継続的に活動するモデルにすることで、少ない費用で素早く成果を得ることができます。もし失敗してしまったとしても、失うのはわずかな投資にとどまり、その失敗から学び次につなげることができます。

もう少し深く考えてみると、個々のソリューションについて価値を判断するのではなく、すべてのソリューションのポートフォリオを組むことでリスクを分散化させます。いくつか失敗があったとしても、いくつかの成功がその失敗を十分にカバーするので、問題とはなりません。失敗は許容されやすくなり、イノベーターはリスクを取ってイノベーションを生みだすことができるようになります。
アジャイルはこのようなイノベーティブな活動を支えています。ここまでお話ししたことを実施し、継続的な改善を続けることで、いずれ変化が受け入れられ始め、組織全体がより革新的になるはずです。イノベーションはボトムアップで起こること、リスクを取ること、価値の提供に集中することを理解し、変化を促進する仕組みを確立できれば、イノベーションが生まれるでしょう。皆さんのイノベーションが成功することを祈っています。

アジャイルを支えるためのアプローチ

ダンからは、イノベーションを生みだすためにビジネスの真のパートナーになる、意思決定を分散させる、信頼を築きビジネス理解を深める、失敗のコストを最小化する、といったアジャイルな工夫が有効であるという言葉が出てきました。

もちろん従来の働き方をすべて捨てるというわけではありませんが、アジャイルを取り入れることでイノベーションが促進されるという点は大いに共感できますし、一定の成果も上がっていると思います。

経営層としては、アジャイルに求められる要素を支える働きかけを幾つか行っています。真のビジネスパートナーという観点では、DXやアジャイルを推進するデータデザイン室という専門部署を立ち上げ、そのメンバーを各ビジネス部門、現場に送り込むという方法で活動しています。意思決定の分散と信頼・理解を深めるためには、「ちゃんとやりきる力」をキーワードに、個々人と組織を育成するプロジェクトを全従業員参加で推進しています。また、失敗コストを最小化し、厳しい環境下でも高い目標に挑戦する従業員を増やすべく、挑戦する姿勢とプロセスを評価し報酬を与える制度も整備しています。

こうしたトップダウンのアプローチだけではなく、ボトムアップ型の活動も行っています。私たちは、アジャイルな働き方のさらなる展開をはじめとした挑戦を続け、患者さんとそのご家族に、より早く、より良い健やかさを提供していきたいと思っています。

後編へ続きます。